“偽善者”的生き方のススメ
私は最近気に入っている言葉があります。
それは
「やらぬ善より、やる偽善」
というものです。
これを初めて聞いた時、心の中に「ストン」と落ちてそこに居座った感がありました。
まさに「腑に落ちる」という言葉を体感できた気がします。
私はなんだか「良い事をしている」と自分で感じているときは、なぜか少し「後ろめたい」気持ちというか、「照れ臭い」気持ちになってしまいます。
別にそこに「良い事をした報酬」を求めているわけではないのですが、周りの人から「あの人は良い事をしている」と思われたい気持ちが心の奥底にあるのだと思いますが、そういった感情が自分の中に見え隠れするのが原因となっているのだと思います。
そして無意識のうちに「自分良い人でしょ?」と意識してしまう、そんな自分が結構キライですし、人前で「善行」を行うことが苦手でした。
もちろん、目の前で困っている人がいたら助けますが、その際も出来れば「人が見ていない」状態であってくれと思ってしまいます。
「人助けをする」
「落ちているゴミを拾う」
「出しっぱなしの水道の水を止める」
「コンビニでお釣りを募金する」
そんな当たり前のことですが、落ちているゴミを拾ったり、出しっぱなしの水を止めたりするのは、人が見ていない場合が多いので、好きです。
私はポイ捨てなどが大嫌いで、落ちているゴミなどを見ると嫌な気分になるため、近くにゴミ箱があると拾って捨てたくなる性分なのですが、しかしその反面、そういった事をしている姿を人に見られたくないというひねくれた性格を持ち合わせているのです。
コンビニで釣り銭を募金するときも、自分では「さり気なく」募金しているつもりですが、やはり人が見ているとなると、なんだか嫌な気持ちになってしまいます。
良いことをすると「えらいね」と褒められる。
私にとっては、「ただやりたいから」やっているだけの行為なのに、そこに「褒められたいからやっているんじゃないのか?」という心の声が聞こえてくる気がしていました。
そんなあるとき、あの言葉を知ったのです。
「やらぬ善より、やる偽善」
ああ!なるほど!
これは私の中では天動説から地動説に変わったような、まさにコペルニクス的転回を与えてくれました。
自分が行っている行動が、「善行」だと思うから後ろめたいのであって、最初から「偽善」を行っていると思えば何も気にすることはない。
ましてや「自分は偽善者である」というアイデンティティを確立し、それを発信していくことによって、仮に自分の行動を褒められた際には
「私は偽善者ですから、これぐらいのことはして当然です」
と胸を張って言うことができます。
むしろ自分で「偽善者」と名乗っているのですから、今まで以上に積極的に「善行」に励まなければなりません。
「人前で良いことを行うのは恥ずかしい」と感じていた私にとってこの「やらぬ善より、やる偽善」という言葉は、まさに「渡りに船」といったものとなりました。
言葉というものは面白いものですね。
世の中で「偽善者」と呼ばれる人は、大抵の場合は嫌がったり苦しんだりしていると思いますが、私のように積極的に「偽善者」になりに行くことで救われる人もいるのですから。
哲学の分野の中では「世の中は言葉で出来ている」という考え方もあり、これはこれで面白い考え方だと思います。
言葉によって相手に思いを伝え、言葉によって理解し、言葉によって喜び、言葉によって傷つく。
今回はこの「やらぬ善より、やる偽善」という言葉を、私の聖書(マインド編)に追加しておこうと思います。
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